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Web朱夏 No.11(2024.9.21)

越境する視線、ふたたび その2 対馬と釜山

宮下今日子

長崎県対馬は「リマン海峡とツシマ海峡の交わるところ/寒流と暖流の霧をかもしだすところ/潮風にさらされた島」(「はるかな愛」未定稿。『合著詩集』に収録)

朝鮮半島と日本(対馬)の間の狭い海峡には、ユーラシア大陸から朝鮮半島に沿って冷たい潮を運ぶリマン海流と、日本沿岸に沿って温かい潮を運ぶツシマ海流が流れ込み、その二つの潮が渦を巻き、激しくぶつかり合う。その結節点にある島が対馬である。

対馬からは、晴れた日に朝鮮半島の島影が見える。しかし、渡ろうとしても、この海峡には、常に対立する二つの潮が渦を巻く。そこを越えようとして挫折した一人の詩人がいた。

何者だ? 俺を追う者
職を剥がれた、パンを奪られた
出てゆけとホッポリ出された
温突(おんどる)よ 土しょうよ、パカチよ、水甕よ
みんな別れだよ 白衣の人々
李君 金君 朴君 朱君
名もない街頭の戦士・乞食君
苦役の浮草・自由労働者担軍(チゲクン)
さよなら さよなら
さよなら 貧しい俺のお友達
(「朝鮮よ」1929年6月「宣言」創刊号)

玄界灘にホッポリ出されたその男は、朝鮮を追放された対馬出身の教師で詩人の、内野健児。彼は、釜山から日本に向かう玄界灘に浮かぶ船の甲板から、釜山の島影を振り返り、朝鮮の友に別れを告げた。

内野は、日帝時代(大正10年)に、訳あって朝鮮半島に渡り、両国の架け橋になろうと詩を書いた。三・一独立運動の余塵の中に立ち、支配民族としての自分と決別する。彼は官立中学の教壇に立つかたわら、朝鮮人の抵抗の思いを詩に込めた。それが原因で、発禁処分となり、いよいよ朝鮮を追放されたのだ。

1928年7月9日、朝鮮総督府から京城中学教諭を罷免され、朝鮮追放を宣告される。総督府は“退職願”を受理したかたちで処理したというのだから、内野には自主的に退職届けを強要し、国の責任は放棄するという実に卑怯な手段だった。しかも、送別会を開くことも禁止された。

内野は政権への怒りを「河豚」(ふぐ)という詩に詠んでいる。わが身を河豚になぞらえ、捕獲者は総督府である。身体を鞭うたれた河豚は、「腹は破裂して憎悪の烽火を揚げる」と抵抗し、「五体解体し、五臓六腑ちぎれても/体内の奥秘に/彼奴等の血脈を断つ最後の劇薬を/塗ることを忘れるな」(「河豚」「地上楽園」に掲載。1927年8月)と詠む。河豚は劇薬をもっている。フグのうま味におぼれ、堪能する贅沢な特権者たちをイチ殺にする猛毒。この詩は、この年の6月に自分の詩が発禁処分されたすぐ後に書かれている。これもまた発禁覚悟だったろうが、比喩による巧みな韜晦的手法が注目される。

内野の詩は常に苛烈だった。彼の代表作、長編詩「土墻に描く」(どしょうにえがく)には、“紅蓮の炎”という語彙が使われる。「呪ひだ!/呪ひは遂に呪ひだ!/呪ひの炎よ、のぼれ/ああわれらの青ざめた体躯からは/麗しい紅蓮の炎はのぼるまい/だが、濁流の様に奔騰する炎よ/竜巻の様にのぼつて/紅蓮の炎でやくよりみにくく/地上をやけ、天をやけ/よろづのものをやきつくせ」と描く。選ばれた語彙は、火を噴き、虐げられた者の怒りは彼岸に達する。これほど怒りを込めた詩が日本にどれほどあるのだろうか?

『新井徹の全仕事』を編んだ任展慧氏は、「朝鮮時代の内野健児」という論文の中で、「全く未知であった朝鮮の詩野を開拓し、幾多の新人輩出に気運を作った」と内野を評価する、ある人の文章を紹介している。また、朝鮮の詩壇を築いた最初の人だったという評価も挙げている。

再び来る日まで
アイツと君らのいる水平線
さよなら さよなら 暫しのさよなら
(「朝鮮よ」1929年6月「宣言」創刊号)

内野は、日本人と朝鮮人は「互いに接近して理解しゆく所に愉快な精神上の抱擁融和も生じよう」と書いた。しかし、去り行く船からは、もう島影さえ見えない。

しかし、水平線の向こうには、朝鮮で出会った仲間がいる。そして、アイツ、そう権力者がいる。越境する視線は、真の敵を突き刺すことを忘れていない。

   ※        ※        ※

新井徹(本名、内野健児。一八九九~一九四四) *新井徹(あらいてつ)

広島高師国文科に学んで一九二一年に朝鮮に渡り、大田中学校と京城中学で教諭を務めた。当時の日本人教諭は朝鮮総督府の官吏というのが公的身分であり、殆どが皇民化教育の手助けをした。しかし彼は植民地政策に批判的な姿勢を保ち続け、夫人の後藤郁子と詩誌『耕人』『亜細亜詩脈』を刊行した。第一詩集『土墻に描く』が、治安を乱すとして発禁処分となって日本に強制送還された。徹はこの詩集をもって朝鮮人民に愛情を注ぎ、連帯の意思をあらわした。
帰国後は「プロレタリア詩人会」の創立に参加して「ナップ」で活動し、「アルメニアの兄弟」「弟よ」「入営万歳」などの詩は高く評価された。「ナップ」の解散後はプロレタリア詩人の拠り所となった『詩精神』を主宰して彼らに発表の場を提供し、新人の育成にも力を注いだ。詩集に『カチ(鵲)』『南京虫』があり、詩のほかに童話や絵画にも才能を示した。四四年に永眠し小熊秀雄・小林多喜二らと共に「解放運動無名戦士の墓」に合葬された。『新井徹の全仕事』(創樹社 一九八五年)がある。

『朝鮮半島と日本の詩人たち』 卞 宰洙(ピョン ジェス)著。二〇一六年 スペース伽耶刊。p77の新井徹の説明より引用。


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