主に詩作品を中心にしながらモダニズム都市大連の魅力や、都市からは外れた風土の魅力、それに直面した当時の日本人の驚きや感慨、そこから溢れだした表現の独自性をたずね、中国/満洲に魅せられた人々の夢と現実をたどります。ビジュアル的な資料を参照しつつ、当時の中国/満洲にタイムスリップし、詩という枠組を超えて訴えかけてくる街や原野の息吹、人々の息遣いを感じ取りましょう。詩は心の風景を切り取った証としての文です。その魅力を味わっていきましょう。対象は、安西冬衛・北川冬彦/小熊秀雄/金子光晴/清岡卓行。
10月21日、11月4日、18日、12月2日(いずれも火曜日、15:30~17:00)
受講料は、9700円(4回分)
継続して別に冬期講座もある
世界中で読まれている村上春樹。そのクールな世界は、ハルキ・ブームを捲き起こした。中国でも「絶対村上」が流行語に! だが、ハルキ作品の内部には、ハルキ特有の中国が潜められている。その謎を炙り出す!
12月16日(日)10時~11時
講師 法政大学講師 文学博士 田中益三
東京都杉並区宮前図書館 3F講座室
東京都杉並区宮前5丁目5番27号
Tel
03-3333-5166
京王井の頭線「久我山」駅から徒歩8分
入場無料
「白毛女」は中国河北地方にあった「小白菜」という民謡を元にし、一九四五年、延安で歌劇「白毛女」(主演・王昆)を上演したのが始まりだった。
貧しい農民の娘・喜児が悪徳地主の借金のカタに取られ、辱めを受ける。喜児は地主の家を抜け出し、山に入って厳しい生活を送り、髪も真っ白となり、地主への呪詛を強める。やがて恋人の大春が人民解放軍とともに来て地主を懲らしめ、喜児は解放され、ハッピー・エンドとなる。
演劇の「白毛女」は四六年一月、張家口で再演された。このとき、舞台装置を担当したのが中国に滞留していた日本の美術家、小野沢亘だった。キャストは喜児に王昆ら数名も競演。その父に凌子風(のち映画監督)、地主に陳強(映画でも同じ役)、群衆役の一人に田華がいた。小野沢と「白毛女」のことは、小社の『絵筆とペンと明日』にも書かれている。
映画の「白毛女」は五〇年に作られ、田華が主役に抜擢された。この製作スタッフには満映から東北電影に移った二人の日本人が関係している。録音の山元三弥(沙原)、編集の岸富美子(安芙梅)の二人が王濱監督の下で働いた。新中国初の音楽劇映画だけに苦労も多かった。映画は大ヒットとなる。日本で公開されたのは五二年だった。岸富美子と「白毛女」のことは、小社の岸富美子インタビュー本、『はばたく映画人生』の中心部分をなしている。
バレエの「白毛女」は、日本で映画を見て感激した、松山バレエ団の代表、清水正夫・松山樹(みき)子の二人が、創作バレエ「白毛女」を作ったことにより誕生した。田漢から資料の提供を受け、林光に作曲を依頼し、衣装は銀ねずみ色の中国服とし、髪は銀白色のカツラにした。振付はプリマドンナの松山樹子だった。五二年に初演、五八年には中国で初公演し、北京、重慶、上海などを巡った。以来、中国への公演も回を重ねた。最近の動向では、2011年10月に久々の中国公演を行う予定だという。
なお、三つの「白毛女」のことは、山田晃三『《白毛女》在日本』(文化芸術出版社、2007)にも出てくるが、この書の翻訳が待たれる。「白毛女」をめぐる動きでは、2009年に新たに日本語字幕を付けた、間ふさ子のグループの仕事などがある。
「白毛女」を共産主義プロパガンダ芸術だとする意見は根強く存在するが、あくまで娯楽的な勧善懲悪劇として、鑑賞すればいいというのが、小社の意見である。
2月13日、山梨県の湯村温泉に行きました。中央ハイウェイの高速バスを利用しやすい当方では、湯村温泉は激闘を癒すかっこうの保養場。そんなわけで、常宿と言えばカッコイイが、休養を兼ねて時々訪れています。それに、湯村には竹中英太郎記念館があり、娘さんの金子紫(ゆかり)館長さんにお話を聞けるのも楽しみの一つ。
竹中英太郎とせらび書房との繋がりは、『朱夏』第13号の特集だった「探偵小説のアジア体験」のとき。表紙に竹中英太郎の挿絵を使わせてもらったのが始まりです。ご存知の通り、彼は『新青年』にたくさんの挿絵を描いていました。『新青年』や多くのミステリの中から外地関連の作品を調べあげ、質の高いものをセレクトして集めたのが、当方の〈外地探偵小説集〉です。この本の挿絵を描いているのは、グレゴリ青山さん。なんと、彼女は竹中英太郎の大ファン。妖気溢れる絵に魅せられてしまったそうで、探偵小説シリーズの挿絵を快く引き受けてくれたのです。
今回、湯村を訪れたのは、紫さんから「山梨文学シネマアワード」という初のイベントを開くというので、その案内状を頂いたからです。記念館も企画の中心だったとのことで、萩原健一や仲代達也らが出演する作品などが受賞したとのこと。ショーケンも受賞パーティーに来て、元気な姿を見せたとか、カッコよかったとか……。
竹中英太郎記念館には、もちろん彼の挿絵がたくさん展示されています。全仕事をすっかり眺めることができます。夢野久作の作品の挿絵はほとんど彼が描いていました。乱歩や横溝正史は一部ですが……。それに五木寛之の『戒厳令の夜』にも描いています。年譜を見ると、満洲に行っていることが分かります。しかし、満洲で何をしていたのかは、あまり明らかになっていません。『満洲日日新聞』や「コドモ満洲」に挿絵を描いていたことは分かっています。中でも満洲美人画は必見です。これは雑誌『月刊 満洲』の企画で、彼が美人画を描いて、それが誰かを当てるといった楽しい企画だったそうです。美人画は記念館に3枚展示されていました。満洲美人画は、東京渋谷の松濤美術館で展示され、絵葉書にしたその美人画が好評で、飛ぶように売れたそうです。
竹中英太郎の作品はまだまだどこかに眠っているようです。「コドモ満洲」は全巻揃っているので、なんとか英太郎の作品をまとめておきたい!とゆかりさんは切に訴えてらっしゃいました。資料はひとところに集めておくことを当方も願っています。きちっとした保存が大事、大事! 協力できることは当方でもしたいと思っています。
黒崎裕康 『哈爾濱 松浦洋行序説―満洲で成功した日本商社の軌跡―』地久館・発行、索文社図書・発売。586ページ。2010.9発行、定価6000円(総額)
著者の名は哈爾濱の研究家として知られている。哈爾濱を愛することでは人後に落ちない。そういう点で恵雅堂出版とロシア料理店『チャイカ』を経営する、麻田平草さんと同じ、深い哈爾濱愛好家だ。
黒崎氏は『哈爾濱地名考』の著者として一部の人々に知られていたが、今回、松浦洋行に取り組んで8年間。およそ900点の資料に当たり、本書を完成させた。 1934年生まれの著者は、4歳から12歳までをエキゾチックな哈爾濱で過ごした。だから、深いこだわりがある。
哈爾濱の中央大街(旧キタイスカヤ通り)へ行けば、松浦洋行の建物は残されている。「バロック様式風格の折衷主義様式」の建物は、現在は新華書店となっていて、ランドマークとしての風格がある。
本書は創業者、松浦吉松のことから筆を起こし、哈爾濱への進出、輸入品を扱う百貨店への経営拡大など、チューリン(秋林)や登喜和と並ぶ松浦洋行の行方を追う。この商社を語る文脈から哈爾濱の経済・金融の背景、戦争の影響、敗戦後の動向などが冷静に分析され、明らかとなる。
数奇な運命を辿る、松浦洋行について初めて本格的に語った浩瀚な書物。後半は「資料篇」だが、ビジュアル資料があって興味深い。
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